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統一教会と宗教二世の苦悩 ~ 二世には信教の自由がない?【後編】

 宗教二世問題の本質 ― 私には自分の人生がなかった!?


一世と二世の根本的な違いは、一世が自ら欲して信仰の道に来たのに対し、二世は自らの意思とは関係なく、生まれてみたら(或いは、親の決定によって、気付いてみたら)信仰共同体の中にいた、という点にあります。


相談を受ける中で、多くの二世からこんな言葉を聞きました。「私には、自分の人生がなかったんです…」。その言葉は、宗教二世の抱える本質的な課題を端的に言い表しているように思います。


礼拝参加にせよ、各種行動の規制にせよ、経済的困窮にせよ、二世たちからすれば、それは自分の決定によるものでもなければ、自分の動機から始まったものでもありませんでした。気付いてみれば、そうした環境の中に置かれ、また「そうすべきだ」と教えられて育ったのです。


「強制したことなどない…」という親たちも少なくないでしょう。しかし、それでも、子供たちは親が何を願い、どうすれば親に喜ばれ、受け入れてもらえるかに敏感です。言葉や力による「強制」がない場合でも、親の目を気にして生きようとする二世は少なくありませんでした。


「自分は親によって敷かれたレールの上を走らされていた」、そう述べる二世たちもいました。その生き方が、結果として人生にプラスになったか、マイナスになったかは別として、ある時、二世はハッと気付かされるのです。「自分には、自分の人生がなかったんじゃないか」と。


心の優しい、親思いの二世である程、こうした苦悩を抱えることが多くありました。ある意味、毒親のもと、「こんな親なんか…」と切り捨てられる方が楽なのかもしれません。


でも―、親からは愛された、だから親を悲しませたくないし心配させたくもない、親と同じ価値観はもてないし、もちたいとも思えないけれど、それでも親の人生を否定してしまいたくはない…。そんな思いから、むしろ自分の考えの方を抑え込み、自らの思いを押し殺し、「我慢」をするのです。


しかし、子供にも限界はあります。親の信仰に「付き合う」ことができるのも、せいぜい中高生期まででしょう。青年期に入り、結婚(祝福)や就職という自らの課題と向き合い、自らの足で自らの人生を歩まなければならない時になって、それまで積もっていた思い、親が理解できていなかった思いが爆発する―、そんなケースをよく目の当たりにしました。


それは、親からすると「いい子の豹変」にも見えるでしょう。でも、「本当の親子関係」が始まるのは、実はそこからでした。


二世の秘められた感情の爆発が、親子の決裂の始まりとなるか、親子の対話の始まりとなるか―。本当はその時こそ、信仰の助けが必要であり、周囲の温かいサポートが必要だと思うのです。


 


宗教二世としての選択 ― 自らの人生の主人になる


二世たちが抱えるこうした根本的課題に対し、解決の糸口があるとすれば、それは恐らく、二つに一つであろうと思います。それはまた、私自身が実際に見てきたケースでもありました。総じて言うなら、それはどちらとも、「自分自身の人生のオーナー(主人)になる」ということです。


①信仰を選択するケース


二世たちが苦悩を越えていくケースには二通りありました。一つは、信仰を「自分自身の信仰」にするケースです。


私は二世もまた、信仰を「選び取る」のだと思っています。愛と信仰は、強制も強要もできません。また、誰かの信仰の「受け売り」で人生を生きていくこともできないでしょう。親や周囲は信仰することの「切っ掛け」を与えてくれるかもしれませんが、「決断」するのは自分自身に他なりません。


私は「親を見て信仰のすべてを判断するのではなく、直接、原理(=統一運動がもつ価値観)を通して信仰を知って欲しい」と述べてきました。親が必ずしも、正しい原理的価値観に立っている訳ではないからです。


また、皮肉ですが、私は教会本部に在籍しつつも、二世たちに「信仰と教会とは分けて考えよう」と伝え続けてきました。なぜなら、二世たちにとって信仰の躓きとなっていたのは、決して神や原理の教えといった信仰の本質ではなく、本来の軌道から外れた「教会の在り方」であることが多かったからです。


献金中心の体制や硬直した組織文化、社会の公益よりも集団の利益を優先するような在り方やモラルを欠いた教会指導者の言動等…。そんなことで、自らが信じたいものを否定して欲しくはありませんし、逆に組織に縛られた信仰、上から押し付けられた不本意な信仰をして欲しいとも思いません。


是非、自分自身が心から納得でき、人生の指針にし得る信仰―、正しい神観・原理観に基づく本質的な信仰を求めてみてください。自らに動機をもつ「主体的な信仰」は、親の束縛からも、教会の拘束からも、皆さんを自由にしてくれるに違いありません。


※信仰を選択するというのは、何も「教会に残ること」を意味している訳ではありません。


②信仰を選択しないケース


苦悩を脱した二世たちのもう一つの選択は「信仰を選び取らない人生」でした。


さんざん自分の人生を狂わせた親や信仰、宗教的価値観とは一切、縁を切りたいというケースもあるでしょう。むしろ、親を簡単に切り捨てられないからこそ、ここまで苦しんできたのかもしれません。


私もそうした二世たちを引き留めることはできませんでした。二世たちにも信仰を選び取る自由があり、また「信じない自由」もあるからです。


誰かが他人の人生を代わって生きることなどできません。親でも、子供の人生を代わってあげることなどできないでしょう。親にできることがあるとしたら、それでも、子供たちの行く末が神に守られ、またいつかどこかで、神を知る日がくることを祈ることではないでしょうか?


ただ、どんな決定を下すにしても、「自らの人生のオーナー」であってください。


親のせい、教会のせいだと思い続けてしまったなら(それがたとえ事実でも)結局、自分の人生の幸不幸を「他人」に委ねてしまっていることにしかなりません。


苦い経験を成功のバネに変えて行った人たちもいます。生まれ育った環境や過去の境遇は変えられなくとも、それをどう捉え、今後どう生きるかは「自分」で決めることができるはずです。


一定期間、負の感情に苛まれるかもしれません。傷の修復に時間がかかることだってあるでしょう。でも、どこかで、そうした過去の痛みが成功の糧に変わることを、またそうしたダイナミックな人生の主人になって行くことを心から祈ります。


そうした歩みがまた、痛みを抱える多くの二世たちに力となり、励みとなるのではないでしょうか?


誰かのため、周りのために生きていれば、またどこかで神の導きを感じることがあるに違いありません。「神様」という存在は、特定の宗教や教団の中などではなく、他のために尽くそうする人々と共にある存在だと思うからです。

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