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知ってる?? 知らない?? 文顕進会長の文書動画と講話文

統一教会二世の恋愛と結婚 ~【前編】4

純潔を守る意義と価値 ー 性は汚れたサタンの道具?


教会内の教育は長らく、「ビジョン(理想)」からではなく「現状(問題)」から語られてきました。要するに、「理想を目指そう!!」(~しよう)ではなく、「問題を起こしてはいけない!!」(~するな)といった指導です。


※三男・顯進氏がこれを一転させ、ビジョン型の教育が始まっていくのは2000年代以降ですが、教会内の体質は簡単には変わらなかったように思います。


「天国の素晴らしさ」よりも「地獄の恐ろしさ」ばかりを教え育てた場合、それが子女教育にどれ程の歪みをもたらすかは想像に難くないでしょう。


恋愛したら地獄に落ちる―というのも、その端的な例ですが、それは「性」についても同様でした。


昨今、ネット上には、「純潔という価値観を押し付けられた」「テレビや漫画(性情報)は堕落世界のサタンの道具と教えられた」「性交渉(婚前交渉)は殺人以上の罪だと脅された」といった二世たちの声が紹介されていますが、これらは教会が行ってきた教育の結果という以上に、教会が本来の教育を“怠ってきた”ことの結果に他なりません。


そもそも、原理の観点で言うなら、純潔を守るのは「地獄に落ちないため」でもなければ、「性が汚れたものだから」でもありません。或いは、単に「性病にかからないため」でも、「自分が不利益を被らないため」でもありません。


私たちが純潔を守ろうとするのは、将来出会う「相手」のためであり、二人から生まれてくる「未来の命」のためです。互いのために自らの心身を清く保とう―というのですから、それは極めて健全な考え方ではないでしょうか?


過去において、「純潔」とは、女性だけに押し付けられてきた徳目であり、家父長制の名残のような印象を帯びてきました。私たちもその価値観には反対です。なぜ女性だけが純潔を守るべきなのでしょうか? 


それは、むしろ男性たちにこそ求められるモラルであるに違いありません。


無責任な性行動で、望まない妊娠・中絶を余儀なくされる女性たちがいたのは、彼女たちに「セーフセックス」を教えてこなかったからという以前に、男性たちに、女性たちへの配慮や性モラルを教えて来れなかったからではないでしょうか?


私は性の早期教育そのものに反対はしませんが(無論、年齢と内容にもよりますが…汗)、セックスを教える以前に、愛情や思いやり、家庭的責任や性モラルをベースとした「心の教育」を行うことが先決課題だと思うのです。


また、私たちの掲げている純潔教育とは、性を「恥ずべきもの」であるかのように捉える、過去の純潔教育とも異なります。


「性行為」は本来、成熟した男女が神のもとで交わす「神聖な愛の契り」を意味し、「性器」は神の愛が結実し、新たな生命が宿る「神の至聖所」(=神の臨在する聖域)だと教えているからです。


古き純潔教育は、「性は恥ずべきものだから隠せ」と教え、急進的な性教育では「性は素晴らしいものなのだからオープンにせよ」と促しますが、私たちの主張はそのどちらでもありません。「性は最も貴いものなのだから大切に守ろう」と、そう考えるのです。


実際、将来の相手のために純潔を守る―、そんな価値観に心底あこがれ、半生、純潔を守りながら結婚に備える二世たちも少なくありません。


本来、こうしたポジティブな愛と性の指導が、もっと隅々まで行き渡っているべきでした。


誰かを好きになったり、性欲に駆られたり、不安や寂しさから投げやりな恋愛関係に陥ってしまったような時に、「サタン」だとか「堕落」だとか「地獄に落ちる」とかではなく、もっとその悩みに寄り添ってあげながら、本然の愛や性について親子で向き合い、語り合う場がもてたなら、思春期の二世たちの様々な苦悩をもっと汲み取ってあげられたのではないか、と、そう思えてなりません。

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