信徒の犠牲は何のため?
ご利益か?自己犠牲か?
「これで本当に救済されると思いますか?」 先日、記者の方から、旧・統一教会の「被害者救済法案」について尋ねられました。
恐らく、示された範囲では、実際に“救済されない”方々もおられるでしょうし、「抜け道」も多々あるに違いありません。が、「借り入れによる献金」が規制されるだけでも、今いる信徒やその家族を守ることにはつながるのではないか、と思いました。(献金に変わり得る)土地や資産は全ての人が持っている訳ではありませんが、「借り入れ」は誰にでもできてしまうからです。
本来、信徒が借金してまで献金しようものなら、まず教会側で止めるべきでしょう。しかし、実際、借金をして献金を行うケースは、教会内では珍しいことではありませんでした。
多くの場合、宗教に入る理由は「ご利益」であって、献金やお布施というのも、感謝の表現であると同時に、「商売繁盛」「無病息災」「大願成就」といった願掛け(=ご利益への期待)だったりします。
しかし—。統一教会の献金は違いました。それは「ご利益」ではなく、「天のため」「世界のため」「先祖と後孫のため」という“自己犠牲の精神”によるものだったのです。
物販や伝道の入口で、「病気が治りますよ」「運勢が開かれますよ」「家庭内の悩みが解決されますよ」といった“トーク”が行われることはあっても、それは言わば、「信仰のない人」「信仰の幼い人」に献金を求めるための“方便”であって、「信仰をもった人」「信仰歴の長い人」は皆、ご利益を期待して献金している訳ではないのです。
最初はご利益で入信し、ご利益のために献金する人も多いのかもしれません。が、学びを進めていくうちに、いつの間にか、献金の動機が「自己犠牲」へと変わるのです。巷では、これを指して「マインドコントロール」と呼んでいるのかもしれません。
しかし、「利己的」な人間を「利他的」に変えるとすれば、私はその教え自体が“有害”であるとは思いません。宗教は常に、「ご利益」と同時に「自己犠牲」という側面を持っていました。宗教が教えるそうした精神が、人の心を豊かにし、社会を発展させてきたのではないでしょうか?
献金もまた、自らが大切にしている金銭を誰かのために捧げようとする貴い行為に違いありません。
であれば、献金の何が問題だったのか―。それは「方法」と「程度」と「目的」の問題であったと、私は思います。
このうち、「方法」の問題については既に述べてきた通りです。不安や恐怖、強制や強要による献金など、あっていいとは思いません。しかし、仮にその献金が自主的な動機、「自己犠牲の精神」によるものだったとしても、「程度」と「目的」を見つめなければならないと思うのです。
即ち、「どこまで」犠牲にしていいのか、そして「何のため」の犠牲なのか―。これらの点において、教会の献金の在り方は明らかに“不適切”でした。特に後者(何のために…)においては、教会本部が「問題はなかった」としている「2009年以降」にこそ、大きな問題があったと思うのです。