何のための献金、誰のための献金か?
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私は教会活動のすべてを否定しようなどとは思いません。
全国の教会現場には、純粋な動機で奉仕活動に勤しんでおられる方々もいます。人知れず、地域のために心を尽くしている信徒たちも数多くいることでしょう。そうした活動が「統一教会系だから」という理由一つで、頭ごなしに否定されたり、過去に授与した表彰まで取り消されてしまう、といった事態は、明らかに行き過ぎです。
しかし今、信徒の家庭に多大な犠牲を強いてまで進めている教団中枢の大々的なプロジェクトについて言うなら、それは本来、統一運動が志向してきた家庭運動でも、平和運動でもありません。
かつては、あらゆる教会活動が「教団の布教やプロパガンダのためなのだ」等と報道されようものなら、「それは違う!」と反論できました。でも、今は「その通り」になってしまっているのではないでしょうか?
信徒に自己犠牲を教える教団が、自ら独善的な教団になり下がってしまうなら、それは致命的な自己矛盾なのではないでしょうか?
純粋に信仰し続けている信徒の皆さんにこそ、現状を冷静に見つめ直していただきたいのです。この教会がしていることが、本当に人々のためになり、世界のためになり、神の御旨に適うものであるのか―。
多くの記者の方々に言われました。「信徒には善良な人たちが多い」と。天のため、世界のために、と、自らの大切なものまで犠牲にしてきた方々の中に、悪い人などいないはずです。
しかし、だからこそ、皆さんの捧げる献金が一体「何のため」に用いられているのか(=献金の目的)を常に問い、自己犠牲を課すにも、「越えてはならない一線」(=献金の程度)があることを忘れないでください。
本当に大切なものを見失っていただきたくないと思うからです。