養子を授ける側、授かる側
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子どもの幸せは考えられていない?
ある報道で取り上げられていた「子宝に恵まれたから養子を出さなければならない」とか、「恵まれない家庭に養子を出す“責任”がある」といった教会書籍内の文言(=私の手元の書籍では探せなかったのですが…)は、あまりに乱暴であるに違いありません。
養子を授けるということ、特に自分のお腹を痛めて生んだ子を養子に出す母親の立場からすれば、それは普通にできることではないからです。言わば、それくらい相手家庭のことを大事に思えなければ、決してできないでしょう。それは「責任感」からではなく、「愛情」の成せる業なのだと思います。
自分の兄弟の家庭だという意識でもない限り、実践できないのではないでしょうか?
一方で、子どもを欲しながらも、子どもを持てない母親たちの思いもまた切実だったと思います。家庭相談に応じた際、そうした苦しみを吐露されるケースもありました。そうしたなか、養子を授かったのだとしたら、母親はその子の存在にどれだけ慰められ、また感謝するでしょうか?
でも、それもこれも皆、結局は生まれてくる「子ども」の幸せじゃなく、「親」の都合じゃないか、と言われる方もおられるでしょう。その点、私も、記事や報道を見ながら、様々な思いを通過してきた二世の声を聴きながら、確かにそうなのかもしれない―とも思いました。
ただ、授かる側も、また授ける側も、特に母親たちは皆、生まれてくる子どもの幸せを人一倍、願ったのではないでしょうか?
子は親を選べないと言います。それは子の複雑な心境から出てきた言葉だと思いますが、親の立場からしても、常に「自分がこの子の親で本当に良かったんだろうか」と思わされたり、「もっと良い家庭に生まれて来たほうが幸せだったんじゃないだろうか」と、我が子を不憫に思ったりするものです。
親も皆、不足で、不器用で、失敗だらけです。子どもたちから見たら、どの親も足らないことばかりでしょう。でも、それでも、子どもにとって幸運な境遇があるとすれば、それは自らが「望まれて」「願われて」生まれてくることであって、自分の存在を望み、願ってくれた人に「親」になってもらうことではないでしょうか?
その意味で言うなら、養子として「あなた」を迎えた親は、心の底から「あなた」という子の存在を切実に願い、欲した立場なのだと思うのです。
教会が、献金要請や様々な組織の都合によって、そうした親から「親の心」を奪うような指導をしてきたとしたら、それは糾弾されるべきだと思います。でも、少なくとも、養子縁組の取り組みそのものは、実績評価や布教、教勢拡大といった教会のエゴには汚染されていない、純粋な取り組みだったと思うのです。
無論、法的問題は別でしょうし、このことで苦しんできた二世たちの声を拾い上げ、改善を求めることは必要だと思います。ですが、教会での養子縁組の取り組みそのものを「人権問題」として取り扱うことについては、是非、慎重に考えていただきたいと思います。
養子として育った全国の二世やその父母の思いを考慮していただきたいと思うからです。