原理講論の訓読
原理と言うのは、天の父の心情を発露とした愛を動力とし、それが法則、原則みたいになったもの。言葉を超えたもの、それを言葉でつかむことはできない。
では、どうすれば、、そう、原理講論で解明解釈する。あくまでも解明解釈であって、これぞ原理とはならない。天の父の心情や愛を矜恤したメシアのみ言を解釈する為のものでもあり、原理講論はあくまでもツール。
本当に原理がわかっておれば、もう天の父、メシアのことはあなたにお任せとなって、洗礼ヨハネ、預言者エリアとして教祖になれる。また、王になれる! 王になれば、天の父、メシアは王の王。
どこまで知ってか知らぬか、原理講論の解釈からこれぞ、天の父、メシア、原理やと言って、道から外れるものも多い。
一概には言えないが、原理等を断定する者がいたら要注意。
原理講論での訓読は原理講論よりも顕進様のみ言をもって、原理講論でこうなってるから、こうなると言うのが筋。
原理講論は、原理の方程式みたいなもの。この方程式から導かれ原理を心情で悟っていかなければならない。それで天の父、メシアの意図するものをわからなければならない。
あるシックより。。